今日学んだこと
今日学んだことが、自分の中にしっかり根をはるといいなぁと思います。
第一朗読は「アモスの預言」(アモス8・4-6、9-12)でした。
貧しいものを踏みつけ、苦しむ農民を押さえつける者たちへの神の送られる罰は、主の言葉を聞くことができない飢えと渇きであるということでした。偽りの天秤を使ってごまかし、弱い者を、貧しい者を靴一足の値で買い取り、くず麦を売ることを、悪や不正義を行うことを何とも思わない者たちへの主の罰とは「飢えと渇き」なのです。彼らは死んだら終わる、自分の手中から無くなるものを自分の為にかき集め、貯め込むことに必死です。結局、心から愛され慈しみを受け、尊敬と正義で答えてくれる友人や仲間はどこにもいません。それは自らが他人にそして神に対して行っていることが、罰としてそのまま返ってきている姿なのです。
マタイによる福音
そのとき、イエスは通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ちあがってイエスに従った。(マタイ9・9-13)
これは「マタイの召命」と呼ばれる場面で、わたしも描いたことがあります。この絵の最も有名なのはカラヴァッチオによって描かれた作品でしょう。暗い収税所に一筋の光がさし、その中におぼろげに見えるイエス様が指さす先に収税人たちが腰かけています。その中心に自分を指さす中世の衣装に身を包んだ初老の男がいます。彼がマタイだと言われていますし、そう思われている方がほとんどではないでしょうか。ある美術書にはテーブルの上にある貨幣を俯いて数えている青年がマタイであると書かれています。それが正しいという意見も多く聞かれます。聖書を読み、マタイについてあれこれ考えるだけでなく、芸術も好きという方はもうひとつの答えが見つかります。実は画面の左側から覗きこむ服装の地味な男性もマタイかもしれないのです。一人だけ地味な格好だからということにも意味があります。服装も彼の回心の兆候であるからなのです。そしてよく見ると、イエスの指先も、中央の最も偉い人に見える男が示す指先も、その地味な男性の方へ向いているように見えてきます。カラヴァッチオは本当は誰をマタイとして描いたのでしょう。閉ざされた窓は収税人たちが自分たちの利潤のみを求め、世間から忌み嫌われており、社会や人々と隔絶していることを現わしています。
イエス様はマタイの家で食事をしています。収税人は一度辞めるともう復職できないということです。これはイエス様にすべてを捨ててついて行くことをマタイが決めたということです。そしてお別れの宴が徴税人や罪人が大勢やってきて催されています。イエス様と弟子たちもいます。ファリサイ派の人々がこれを見て「あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。」と言いました。そこでイエス様はこう言われます。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いえにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
神様に呼ばれた人は、その人が罪人だからでしょうか。
人は国や社会の法律に従っていると、警察に捕まるような罪は犯していないからわたしは罪がない、悪人ではないと思っています。法律的にはそうです。しかし愛である神様の目から見たらどうでしょう。意地悪をしたり悪口を言うのも罪です。他人の成功を妬み、不幸になると喜ぶ。そういう気持ちも悪い、と分かります。そしてすべきことをせず、助けるべきものを助けない、見て見ぬふりをする、などなどたくさんの見つかっていない罪をこっそりもっているのに、自分は罪などないという心に罪があるというふうには思えないでしょうか。
そう思うと、自分自身には悲しくなるほどの罪があると思います。
罪人は罪を犯している自覚があります。だからこそイエス様からの呼び掛けに従う気持ちを持つことができるのです。ここではイエス様はマタイの回心をご存じで、マタイに呼びかけておられるのですが、神様はすべての人を招いているのです。
そして、神様に許された自分が人を責めるわけにもいきません。自分も罪人だと自覚して神に許しを請い、悔い改めるように努力すれば、神様が許すための力を下さり、罪を犯した人を許すことができるのだということです。
今日はその先があるのです。
わたしたちは「周りがみんなそんな人たちならいい世の中になるのになあ~。」と思います。そうだと思います。でもみんながひとりひとり違うからこそよいのだということでした。美とはどういうものでしょう。それは「多様性の調和」だということです。秋の紅葉がすべて同じ種類の赤であったらどうでしょう。最初は驚き、心を奪われますが、2時間もすると飽きてしまいます。黄色や緑、茶色やオレンジ、赤やきみどり、何とも多種多様な種類のいろんな色が調和しているからこそ感動するのです。人も植えたり掘ったり、手を出してはいますが、やはりそれは神様が作られたものを見ているのです。完全な愛であり、完全な真理であり、そして完全な美である永遠の神。
許すことを通して、答えに近づいていくのではないかと思います。